ふるさとの文化財を守り伝える心

Vol.26 次代へ種を蒔く お六櫛の技法

木曽木櫛の代名詞ともなっている「お六櫛」は歯の目の細かい梳き櫛で、木祖村藪原でその製作技術を守り続けています。藪原は中山道の難所であった鳥居峠の南側に位置する宿場町で、ここで生産される木櫛は江戸時代、江戸・東北方面をはじめ京都・大坂はもとより九州にまでもたらされ、最盛期には藪原の約7割の家が櫛の生産で生計を立てていました。
お六櫛はミネバリの木を使用し、10cmにも満たない幅に100本前後の歯を等間隔で挽いていきます。その技術は親から子へ代々受け継がれ、かつては日本髪の整髪用具として、また入浴の機会に恵まれない時代には頭のフケやほこりを取り、頭皮の健康を守るため、庶民の生活には必要不可欠なものでした。昭和30年代に入ると女性の髪形の変化や洗髪剤の普及、化学製品の櫛の登場などにより需要は次第に減少、お六櫛の生産は衰退の一途をたどり、昭和40年代には手挽き櫛の技法を受け継いだ職人はわずかになりました。
このままではお六櫛作りの技術が廃れてしまうと案じた故川口助一氏(平成7年・お六櫛づくり人間県宝認定)によって手挽き技術の再興がはかられ、昭和53年には保存会によって技術伝承講習会がはじまりました。「川口さんの行動がなかったら、今頃お六櫛は廃れていたかもしれない」と語る保存会長の北川聰さん(75歳)は、川口さんに恩義を返すつもりで櫛作りと技術の伝承活動を続けているといいます。現在は数名の職人と保存会員によってお六櫛の技法は継承されていますが、現状は厳しく、技術保持者の高齢化が進んでいます。
平成6年からは木祖中学校の授業の一環としてお六櫛作り体験がはじまり、子どもたちが伝統文化を肌で感じる場が設けられました。また、現在伊那谷から取り寄せているミネバリの木を村内で育てていこうと、近年苗木の植樹もはじまっています。子の代、孫の代、そして100年後にも手挽きの技術やお六櫛を残していこうと、地道な種蒔きが続けられています。

木祖中学校では、平成6年以降延べ300人の生徒が手挽き技術を体験している。平成13年からは総合学習の中でお六櫛作りの時間が設けられた。櫛作りに挑戦する中学生の姿は真剣そのもの。

「お六櫛の技法」
(昭和48年 長野県選択無形民俗文化財)
木曽木櫛の製作技術は、木曽と伊那を結ぶ脇街道沿いの清内路・蘭・妻籠で発達し、その後中山道に沿って木曽北部へと広がり、藪原での木櫛の生産は享保年間に始まった。すべて手仕事で作られる目の細かいお六櫛は、櫛目の細かさもさることながら、歯の弾力でしなやかに髪を梳き解かし、地肌にも優しい。

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