ふるさとの文化財を守り伝える心

Vol.23 祈りの声 野辺の来迎念仏

須坂市の「野辺の来迎念仏」は、鎌倉時代末期の嘉暦年間(1326~1328年)に、遊行四世呑海上人(時宗清浄光寺開祖)によって伝授されたものと言われています。時宗本来の行事である「念仏和讃」と、後世つけ加えられたとされる「念仏獅子」の二つの要素で構成される「野辺の来迎念仏」は、全国的にも希少なものといわれています。
念仏をひたすら唱えれば往生できるという時宗の教えは、鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて広く民衆に浸透し、野辺でも受け入れられ、今日に至ったのでしょう。区の住民の不幸の際には、念仏講によるお弔いの念仏和讃がおこなわれており、今でも地域との深い関わりを持っています。
現在、この地域では巨峰を中心としたぶどう栽培が盛んですが、養蚕に大きく頼っていた昭和初期には、世界恐慌による繭価の急落により村は大きな打撃を受けました。「日本一の貧乏村とまで言われた当時は、念仏講の集まりくらいしか楽しみがなかったのかもしれない」と前講長の中沢生一さん(81歳)は笑いながら語ってくれました。このような時代を経ながらも、念仏講によってこの行事は受け継がれてきました。
かつては25編ほど伝わっていたとされる和讃も今では3編を唱えるだけで、念仏の時間も短くなりました。「絶やしてはいけないという責任感がなければ続かない」と、講長の冨沢忠彦さん(80歳)は来迎念仏を後世に残し続けていく苦労を語ります。一方で、「野辺で育った子どもたちが大きくなってここを離れても、来迎念仏が伝わるこの地を誇りに思ってほしい」との思いも口にします。
鉦と太鼓の音の中で和讃の声が流れ、やがて二頭の獅子が登場する野辺の来迎念仏。その中には祖先への供養と極楽往生を願う静かな祈りの姿があります。中世から時は流れ、そこに住む人々の姿も変わりましたが、念仏には、今を生きる野辺の人々と祖先の祈りの声とが重なるような気がしました。

「野辺の来迎念仏」(平成9年 県無形民俗文化財指定)
野辺の来迎念仏は、春秋の彼岸・盂蘭盆と11月の十夜念仏の年4回おこなわれることから「四度の念仏」とも呼ばれる念仏行事です。以前は宿(念仏講の当番の家)でおこなっていましたが、昭和55年頃から地区の公会堂でおこなわれるようになりました

念仏が盛りあがってくると、雄雌の獅子が登場します。念仏の方へ近づこうとする雄を、心配性の雌が止めようとしますが、やがて誘いあって念仏に参加し、太鼓を打って、満足そうに帰っていきます。来迎念仏に付随する獅子舞は、全国的にもたいへん珍しいものです

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