長野県の芸術・文化情報センター公益財団法人 八十二文化財団
江戸時代中期から明治時代初頭までの信濃国内においては、
幕府発行の貨幣(金貨・銀貨・銭貨)や明治政府発行の紙幣だけでなく、地域独自の紙幣も発行され使用されていました。
これらは、往時の経済状況や暮らしぶりを今に伝える歴史史料ともいえるものです。
信濃国内で流通した初めての紙幣は、尾張藩が寛文6(1666)年に発行した「判書(はがき)」といわれ、江戸時代尾張藩に含まれていた木曽地方でこの判書の使用が開始されたとの記録があります。信濃国内で初めて紙幣(藩札)が発行されたのは飯田藩です。飯田藩では元禄17(1704)年に銭札を、享保15(1730)年にも金札と銭札を発行しています。慢性的な財政赤字を背景に藩主が領内に藩札を流通させたものと考えられます。
天保以降、天災や飢饉によって深刻になった領内の金詰まりを解消するために、信濃の諸藩では藩札を発行しています。高島藩では天保6(1835)年12月に「昨年より金銀不通用につき融通のため」とし、銀札を領内に通用させています。また、松代藩では文久2(1862)年12月に銭札を発行しましたが、文久3年4月に「小銭払底につき、御領内在町の者ども難渋いたし候」として、文久4年3月まで、銭札の通用を延長するとしています。
幕末から明治維新期にかけては通貨不足とくに小額貨幣の払底が深刻になり、幕府・政府や藩が発行した通貨だけでは不足を埋められない状況にありました。このため、藩の許可を得て、宿場や町に限って通用する宿場札や町札・村札が、この時期盛んに発行されました。藩だけでなく、村や宿場といった小さな経済圏のなかで、紙幣が地方通貨としての役割を果たしていたことを示しています。
宿場札は宿役人や宿場の有力商人が発行主体となり、宿場限りの小額の紙幣が発行されたものです。信濃国内で発行が確認できるものはそのほとんどが中山道の宿場であり、とくに木曽11宿ではすべての宿場で発行しています。
町札・村札の多くは藩の許可をえて、町役人・村役人か町村域の有力商人が発行主体となっています。
町札・村札の発行は幕末ぎりぎりから明治初年のものであり、この時期の小額通貨払底に対処しようとしたことを示しています。下伊那地方で村札の発行が目立ちますが、この地域の通貨閉塞状況がとりわけ深刻であったことがうかがわれます。
明治政府の時代になっても通貨不足は収まらず、さらには贋二分金が流布したことにより金貨全体の信用がなくなったことから通貨不通用の事態を呼び、経済は大きく混乱し飯田では騒動も発生しました。このため信濃国内の全藩がその打開策として紙幣(藩札)を発行するに至りました。さらには、伊那県と信濃国内14藩が一致協力し紙幣を造り、この混乱を収めようとしました。これが信濃全国通用銭札です。明治維新という変革の過程のなかで多くの紙幣が発行されましたが、明治2年12月、政府は藩・県による紙幣の製造発行を禁止し、翌年7月に信濃全国通用銭札も通用停止となりました。
明治2年7月、伊那県と信濃国内14藩は県藩一致して二分金不通用という通貨事情に対処する方策を打ち出し、10月に信濃全国通用銭札を発行しました。名称のとおり信濃国内のすべての地域で通用した銭札で、取引を円滑にし、通貨不足による騒動拡大を防ぎました。このような紙幣は日本国内では類を見ません。