長野県の芸術・文化情報センター公益財団法人 八十二文化財団
大昔の人びとは、自分の物と他人の物とを交換して、欲しいものを手に入れていました。しかし、物々交換にはお互いの希望が容易に一致しないなどの難点がありました。
そこで
これらの条件を持つ、布、穀物、砂金などの品物が交換の手段として使われるようになりました。これが物品貨幣といわれるものです。中国の殷・周の時代には、宝貝が物品貨幣として使用されていました。お金に関係のある漢字に貝のつくものが多いのはそのためです。
やがて物品貨幣のなかでは、金属(とくに金、銀、銅)が他の物に代わって広く用いられるようになりました。金属は貨幣として優れた性質をもっていたためです。
紀元前8世紀頃になると、中国では農具、刃物をかたどった布幣や刀幣などが造られるようになりました。
中国では西暦621年に「開元通宝」という優れた貨幣が造られ、これが遣唐使などによって日本に伝えられました。
この開元通宝をモデルにし、和銅元(708)年に造られた「和同開珎」が日本最古の貨幣とされていましたが、さらに古い7世紀後半に造られたとされる「富本銭」が奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で見つかりました。富本銭は以前にも平城京跡や長野県高森町などで出土していましたが、まじないに使われた銭として考えられていました。富本銭が日本最古の貨幣かどうか、さらに研究と調査が進められています。
708年の和同開珎以降、250年の間に12種類の貨幣が造られました。朝廷が発行した貨幣という意味で、これらは「皇朝十二銭」と呼ばれています。
政府は皇朝銭を広く民衆に使わせようとしましたが、その流通範囲は主に近畿地方に限られていました。また、銅不足から貨幣の質が落ちたため民衆の銭離れが起こり、政府の力も弱体化したため、10世紀末には皇朝銭の鋳造は中止されました。皇朝十二銭以後、約600年間は、公鋳貨幣が造られなくなるのです。
10世紀末からの約200年間は、米や絹などの物品貨幣が利用されていましたが、平安末期になると、農業生産力の向上や経済の広域化により、金属貨幣に対する需要が高まり、中国等との貿易を通じて流入してきた貨幣(渡来銭)が日本国内でも使われるようになりました。
渡来銭だけでは貨幣が不足していたことから、室町時代になると、渡来銭をまねた私鋳銭(鐚(びた) 銭(せん) )が大量に造られました。
多くの渡来銭のなかでも明の「永楽通宝」は質が良く、16世紀後半頃から各種流通貨幣の価値を計る基準となりました。
これらの貨幣は、江戸時代の初めまで人びとの日常生活に用いられました。
16世紀に入ると、商工業の発展にあわせて貨幣の需要が増大しました。一方、戦国大名は軍資金の調達や家臣への報奨物として金銀に目を向けました。このため各地の戦国大名は領内の鉱山を開発し、独自の金銀貨を鋳造するようになりました。これらの領国貨幣は、その後徳川幕府が鋳造した金銀貨が全国に普及するまでの間、約150年にわたって流通していました。豊臣秀吉が鋳造させた貨幣の多くは恩賜・贈答を目的としていましたが、なかでも「天正長大判」は世界最大の金貨として有名です。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は貨幣制度の統一に着手し、慶長6(1601)年に慶長金銀貨を発行しました。銭貨については、寛永13(1636) 年、三代将軍家光の時代に「寛永通宝」が造られています。のち、寛文10(1670) 年には渡来銭の通用が禁止され、貨幣制度は完全にわが国独自のものになりました。この金・銀・銭、3種の異なった貨幣からなる貨幣制度を「三貨制度」といいます。
一方、17世紀初め頃、伊勢山田地方の商人の信用に基づいた紙幣(山田羽書(はがき) )が出現し、やがて各藩でも領内で通用する藩札(紙幣)が発行されるようになりました。こうして幕府による三貨制度と、各藩における紙幣の分散発行が併存するという、江戸時代独特の幣制ができあがりました。
元禄時代になると、幕府は貨幣素材の不足や財政事情の悪化に対処し、金銀貨の質を落とす改鋳をおこないました。貨幣の改鋳はたびたびおこなわれ、貨幣制度は乱れていきました。
●金貨(計数貨幣)…1両=4分=16朱
●銀貨(秤量貨幣)…1匁=10分、1000匁=1貫(貫目、貫匁)
※秤量貨幣の単位「匁」は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)
●銭貨(計数貨幣)…1000文=1貫文
明治新政府は当初、通貨制度を整備するまでのゆとりがなかったため、幕藩時代の金銀銭貨や藩札をそのまま通用させる一方、通貨不足解消のために自らも太政官札や民部省札などを発行し、さらには民間の為替会社にも紙幣を発行させました。このため、各種通貨間の交換比率が非常に複雑になり、また偽造金貨、紙幣も横行するなど通貨制度は混乱をきわめました。
新政府は貨幣制度の統一を目指して、明治4(1871)年に「新貨条例」を制定しました。金貨を貨幣の基本とし、単位も「両」から「円」にあらため、10進法を採用するというものです。もっとも本位貨幣である金貨とは別に外国との貿易用に貿易銀として1円銀貨を通用させたので、金本位制をうたいながら実質的には金銀複本位制が採られていました。
そして明治5(1872)年に、政府は旧紙幣を回収し、流通している紙幣を統一するために、新紙幣「明治通宝」を発行しました。当時の日本には技術がなかったことから、ドイツの印刷業者に原版の製造を依頼しました。このため、この新紙幣は「ゲルマン紙幣」とも呼ばれていました。
「明治通宝」に偽造が多発したことから、政府は明治14(1881)年にデザインを一新した改造紙幣を発行しました。わが国最初の肖像画入りの政府紙幣で、神功皇后の肖像が描かれています。肖像の作者はイタリア人だったため、肖像の風貌は外国女性風になっています。
政府は貨幣制度の統一を目指す一方で、近代的な銀行制度の確立をしていくために、アメリカのナショナルバンクをモデルに明治5(1872)年に「国立銀行条例」を制定しました。この条例にもとづき、全国で153の国立銀行が設立され、これら国立銀行には、一定の発行条件のもと、紙幣の発行権が付与されました。当初発行された国立銀行紙幣(旧券)は、政府がアメリカの会社に製造を依頼したものであったことから、当時のアメリカのナショナルバンク紙幣の様式と類似していました。明治10(1877)年には寸法や図柄が一新された紙幣(新券)が発行されました。
表面に「信濃・上田・第十九国立銀行」の文字が入っています。国立銀行券は、裏面に割印を押して発行していました。スペース82では、国立銀行券と割印をした発行紙幣記入帳を展示しています。
表面には、殖産興業の高まりを反映し、工業の象徴として鍛冶屋の絵が描かれています。裏面には「第六十三国立銀行」「信濃松代」の文字が入っています。
ちなみに新1円券の表面には海国日本を表徴した水兵の絵が描かれていました。
明治10(1877)年の西南戦争の勃発に伴い、戦費調達のため政府紙幣や国立銀行紙幣が増発されたことから、激しいインフレが発生しました。こうした状況は厳しい財政緊縮と紙幣の回収整理により収束されましたが、その過程で、兌換銀行券の一元的な発行によって紙幣の乱発を回避し、通貨価値の安定をはかることの必要性が認識され、明治15(1882)年、中央銀行としての日本銀行が設立されました。日本銀行券は、明治18(1885)年に銀貨と引換えのできる兌換銀券として、はじめて発行されました。国立銀行紙幣と政府紙幣は明治32(1899)年に通用停止となり、わが国の紙幣は日本銀行券に統一されました。
昭和17(1942)年の日本銀行法制定により、日本銀行は兌換義務がなくなり、日本銀行券から兌換の文字が消えました。これによって日本は金本位制から管理通貨制度へ移行しました。管理通貨制度とは、正貨(金等)を準備して紙幣の額面価値を保証しなくても、最適と思われる通貨量をきめて、通貨量を管理・調整できる制度で、今日も政府・日銀によっておこなわれています。
戦時体制下の昭和13(1938)年には、通貨需要の増大に対処するため「臨時通貨法」が制定され、金・銀・銅以外の新しい素材の金属によって補助貨幣が発行できるようになりました。
昭和21(1946)年、わが国は戦後激しいインフレに見舞われたため、「新円切り替え」がおこなわれ、新しい紙幣が出回るまでの間、応急処置として旧札に「証紙」を貼って通用させました。
昭和25(1950)年には新しく千円札が発行され、以降紙質のよい、多色刷りの紙幣がつくられるようになりました。
今日ではクレジットカードの普及や電子マネーの発達などによって、貨幣も新しい時代を迎えています。
記念貨幣は、国民がこぞってお祝いしたり、または記念すべき事柄について、閣議の決定を経て発行されます。わが国最初の記念貨幣は昭和39(1964)年の東京オリンピックを記念したものです。日本でこれまで発行されたのは、すべて硬貨であり、紙幣は発行されたことがありません。スペース82では、記念貨幣の一部を展示しております。