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「信州の町並み」
栗田 貞多男
①「善光寺門前町と花フェスタ」
善光寺門前町の歴史は古い。平安時代後期には善光寺が阿弥陀信仰の霊地となり、全国の参拝者が訪れ、その門前の集落も発達した。
その後、川中島合戦などにより善光寺は苦難の時代を経て、1600年代からは北国街道の宿場としても発展してきた。特に善光寺にほど近い大門町周辺には、往事の面影を残す白壁の土蔵造りの家並みが残されている。
1998年の長野オリンピックを記念して、この大門町周辺を中心に「ながの花フェスタ・インフィオラータ」(イタリア語で「花を敷き詰める」)が2002年から開催されてきた。花香るゴールデンウィークに続けられている。
②「北国街道・海野宿」
北国街道は追分から上田・長野へと向かうが、その途中に海野宿がある。寛永2(1625)年に築かれた宿場で、江戸時代の旅籠造りの建物と、明治以降の養蚕の盛んな頃に建てられた蚕室造りの建物が調和している。特に、江戸期につくられ防火の役割を果たした「本うだつ」、明治の意匠をこらして装飾を兼ねた「袖うだつ」が、それぞれの時代の特徴を現わし、東西約650mに連なる町並みは見応えがある。
近年、この歴史的建築物は往時の面影そのままに見事に再現された。道の真ん中にはさらさらと用水路が流れている。その脇の柳も情緒がある。さらに「うだつ」が、きりりとした町並みを際立たせる。
③「松本城下町の町並み」
アルプスの見える町、松本は古くて新しい町である。市の中心に位置する国宝松本城は永正元(1504)年築と伝えられているが、常念山脈を背に風格ある城郭建築美を見せてくれる。
その松本城近くの下町を歩いてみよう。大通りからちょっと入った一郭には、古い土蔵造りの町家が残されている。都市再開発が進む町中に見る、これらの旧家は古(いにしえ)と現代とが不思議にマッチして、郷愁というか、一種の安らぎを感じる。さらにそぞろ歩きをしてみると、「源智の井戸」と呼ばれる見事な湧き水のあふれる井戸にも出合える。これらの歴史文化的な積み重ねと、産学・文化の中心都市としての市民の誇りとが松本の町並みには感じられる。
④「諏訪湖畔の明かりと花火」
岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町にまたがる諏訪湖は面積13.3㎢、周囲15.9㎞、長野県第一の湖であり、天竜川の源でもある。湖畔一帯は精密工業を始め、漁業、温泉観光が発展し、その歴史的遺産も諏訪大社は言うにおよばず、片倉館はじめ数多い。
この諏訪湖を舞台に真夏の一大ページェントが繰り広げられる。毎年8月15日、湖上では約4万発の花火が打ち上げられ、全国から約50万人の観光客が訪れる。湖面を染める大ナイアガラと大スターマイン、さらに全身を打ち振るわせる大音響には圧倒される。
諏訪湖を見下ろす高台からは、湖上の花火とともに、湖畔を埋め尽くす町の明りが光のリングさながら望める。
⑤「栗の町・小布施」
北信濃・小布施は栗の町である。いくつかの言い伝えがあり、そのひとつは室町時代に丹波栗が移植されたのが初めといわれる。やがて栗の産地として知られるようになり「小布施栗」と呼ばれた。
また、小布施は江戸時代、当初は天領(幕府領)で後に松代藩領となったが、江戸時代には50町歩(50㌶)もの栗林があったという。元和元(1615)年、徳川家康は養女の小松姫が松代藩主・真田信之に嫁入りしたとき、その栗林を化粧料(持参金)として与えた。これら2つの言い伝えは確証はないが、いにしえの浪漫を感じる。
町の中心部には、どっしりとした屋敷造りの栗菓子店や博物館などが点在し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。これらを訪ね歩く歩道には栗の小口が隙間なく埋め込まれて、足にも見た目にも心地良い。
⑥「北国街道・上田界隈」
かつて、加賀百万石・松代十万石などの大名行列が往来した北国街道沿いの上田市上塩尻。明治・大正期は蚕種屋(たねや)が軒を連ね活況を呈して来たが、時代の変遷と共に今日では古い町並みと大きな蚕室にその名残をとどめ、ひっそりと息づいている。蚕種本場の地として一時代を謳歌し、紬糸で織られた絹織物・上田紬もよく知られる。
この界隈には観光客の姿はほとんどなく、行き交う人も車も多くはない。長い歳月により変貌しつつある石垣や土塀が、人々の想いを超えた時の経過を感じさせる。
白塗の土蔵が街道を見守るように建っている。その背後には上田市民の山・太郎山が大きく迫ってくる。六連銭で知られる戦国時代の智将・真田一族の居城、上田城もほど近い。
⑦「木曽路・妻籠宿」
木曽十一宿のひとつ、妻籠(つまご)。江戸時代の情緒を漂わせた宿場町が、見事なまでに再現されている。さすが木曽五木のふるさと、宿場の家々にはなつかしい木のぬくもり、木の香りがする。軒はやや低く、遠慮がちに木戸を引けば慎ましやかな往時の生活がしのばれる。屋根はヒノキ・サワラなどの皮で葺き、風に飛ばされないよういくつもの重い石が乗せられている。
この宿場をそぞろ歩くには観光客の賑わいが収まった、たそがれ時がよいだろう。中山道の時代そのままに再現された旅籠(はたご)のボンボリに明りが灯り、ただ目的もなくフラリと歩くだけで気持ちが安らぐ。そういえば、目障りな電信柱もない。1968(昭和43)年から3年がかりで行われた宿場復元工事により、民家や旅籠など20数戸が復元修理され、電柱まで取り除かれた。
⑧「雪の飯山とガンギ」
「一晩に四尺も降り積もるというのが、これから越後へかけての雪の量だ。飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。 (中略) 家々の軒先には『ガンギ』というものを渡して、その下を用事ありげな人達が往来している。」・・・島崎藤村『千曲川のスケッチ』より
今、この名作と同じ光景を目にすることはできない。飯山市内のメインストリートには消雪パイプが設置され、路上の雪は降る先から消えてゆく。名物のガンギ(雁木)も暗く雪に埋もれたような存在から、道ゆく人々をしっかりと守りつつ地域の伝統を誇るものへと、装いを新たにした。
ただ、昔も今も共通なのは、そのガンギの上の雪である。この日もガンギの上には1㍍近い雪が積もっていた。
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