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「信州の峠」
小林敬一
富倉峠
飯山盆地と越後平野をへだてる、関田山脈の南端に開かれた峠で、何度かコースを変えて、塩を始めとする物資の交流がなされていた。
鎌倉時代の親鸞聖人も、関東へ布教に向かう際に通ったと言われている。また戦国時代には、上杉謙信もこの峠を越えて、川中島へと向かったのである。明治の後期から大正時代にかけて、コースを変えて車道の整備がなされるまで、幾度か敷石の工事や路肩の積み石工事、路線の変更による工事などが手作業で繰り返されたが、今は役目を終え、旧跡として地元の人達によって手が入れられている。
修那羅峠
麻績村から青木村へぬけるこの道は、かっては生活道路であり、麻績側からは田沢温泉へ、また青木側からは、八幡の武水別神社へお参りにと人々が行き来していた。このあたりの歴史は古く、五世紀から七世紀にかけての古墳群がある。幕末から明治の初めまで、修験者として慕われた大天武を、大国主命とともに祭神とした修那羅山安宮神社があり、人々の神仰を集めた。大天武は人々の願い事を一心に祈願し、その礼として人々は石神仏を奉納した。800体を超える様々な石神仏が、境内の林の中に安置されている。
鳥居峠
旧中仙道の奈良井宿と薮原宿の間の峠で、中仙道一番の難所とされ、旅人が大変苦労した峠である。木曽川と犀川の上流である奈良井川の分水嶺でもある。東西を結ぶ要所として、江戸時代になってから最も往来が盛んになり、奈良井宿と薮原宿は多いに栄えたが、明治になって迂回路が開かれ、またその後も鉄道が引かれたり、国道のトンネル開通でその役目を終えたが、頂上付近に公園が整備され、芭蕉の句碑、栃塚、古戦場碑が並べられ、観光客等に歴史ロマンを提供している。
地蔵峠
この峠は、かって木曽と飛騨高山を結ぶ飛騨街道として、木曽に富山湾の海の幸を運び込む重要な道であった。険しい山道であり、とくに木曽側から峠の手前にある唐沢の滝は難所で、改修工事の折は大変な苦労をしいられた様である。昭和三十一年に改修工事がなされるまで、車の通行が出来ない道で、人力か馬に頼わざるを得なかった。とくに開田村の人々にとって重要な道であるにもかかわらず、病人の搬送等に苦労を強いられていた。
車道が出来ることによって、ようやく苦難から開放されたのである。峠には名前の由来とされるお地蔵様が立っている。昭和六十二年に新地蔵トンネルが開通し、旧道となったが、景色が良いので通る人も多い(冬は通行止め)。
牧峠
飯山市と上越市の間に横たわる関田山脈には、何本かの峠道があるが、牧峠は桑名川から土倉を通り越後へ通ずる道中にあり、かつて村役人は、この峠を通り、今の柏崎付近の支配代官所へ通ったとされる。桑名川は交通上の要地とされ、越後からの塩や、温井の内山紙などの物資はここから通船で飯山や善光寺平へ運ばれたのである。
地蔵様は峠すぐ下の集落外れに、ひっそり佇んでいる。
湯峠
小谷村の小谷温泉は、戦国時代から続く温泉と言われ、白馬盆地を中心とした長野県の人達、そして糸魚川等の越後、遠くは越中の人達が訪れにぎわった温泉である。
湯峠はその越後側から温泉を目指して越えて来た峠である。とりわけお盆の頃の湯治客は多く、人車、馬車の交通の便も良かったが、冬期は雪のため案内人がなければ危険であったようだ。
写真は、小谷村側、峠のすぐふもとの村落である。
鳥居峠
鳥居峠は木曽谷と松本盆地を結ぶ峠で、木曽川と奈良井川の分水嶺ともなっている。標高も高く、旧中山道屈指の難所とも云われた峠であり、戦国時代、木曽氏が甲斐の武田軍を迎え撃った古戦場としても有名である。
江戸時代になって交通の要所として往来が増え、奈良井宿、薮原宿が栄えたが、明治に入り迂回路の開通や、鉄道のトンネル、国道19号のトンネル開通等により使命を終えた。数多くの文人達も通った足跡なども残っていることから、今でも観光客には人気がある。
佐野坂峠
佐野坂峠は大町市と白馬村の境にあり、平坦な丘のような山地で厳しい峠越えというイメージではないのだが、この山地は姫川、高瀬川の分水嶺になっている。大糸線、国道148号線が開通してからは、山地の東寄りを通るようになったが、かつては長い事、西寄りを通り、北陸からの海産物等、物流の為の大切な峠であった。
今ではすっかり往来もなく、青木湖畔の峠の入り口から杉木立の中に、間隔を置いて並べられた石仏がひっそり立っている。
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