八十二銀行の歴史

信州の蚕糸業を支えた二つの国立銀行

八十二銀行の原点は、明治10(1877)年の第十九国立銀行、明治11(1878)年の第六十三国立銀行の創立までさかのぼることができます。
いずれの銀行も、それまで県内の金融に深く携わっていた小野組の破綻以降、混乱していた県内経済の回復と民生の安定化のため設立されました。
両行とも繭や生糸を担保に製糸資金を貸し付ける「製糸金融」や、荷主が生糸を横浜の問屋へ出荷する際に組んだ荷為替を割引く「荷為替取引」に力を入れ、明治・大正期における信州の製糸業、ひいては日本の輸出産業を支え発展させる原動力となりました。

  • 第十九銀行本店(上田市)
  • 六十三銀行本店(長野市)
  • 諏訪倉庫会社

八十二銀行の誕生

第一次大戦後の慢性的な不況による生糸相場の暴落と、関東大震災により衰弱した経済に追打ちをかけたのが、昭和4(1929)年に発生した世界恐慌でした。そして、当時、県内の最大銀行であった信濃銀行の倒産などにより、長野県は「全国一の不況県」と言われるまでになりました。
そうした状況のなか、第十九銀行と六十三銀行の両行は合併し、昭和6(1931)年8月1日、八十二銀行が誕生しました。

戦時体制の中で 県内の工業構造が大きく変化

軍需融資指定金融機関制度始まる 八十二銀行の船出は大変厳しいものでしたが、銀行自らが、製糸家への指導を行うなど県内製糸金融の安定点を見出そうと努力しました。そうした中、県内経済にも回復の兆しが見えましたが、次第に戦時体制へと傾いていく国内にあって、県内の製糸工場は軍需方面に転換し供用されました。
経済は軍需一色となり、八十二銀行など国内銀行も戦時金融機関としての役割を担うことになりました。本土への空襲が始まると、長野県にも多くの軍需工場が疎開し、八十二銀行の金融も大きな転機を迎えることになりました。

日本経済とともに大きな発展

敗戦後八十二銀行は、貯蓄率の向上のため、さまざまな工夫を凝らした預貯金の取り扱いをおこなうなどの努力を続けました。
また、地場産業にも積極的な融資をおこない、一部の県内企業は全国有数の企業に成長するなど、戦後期においても県内の経済に深く関わってきました。こうして、八十二銀行も高度経済成長を迎えた日本経済とともに大きな発展を遂げてまいりました。
狂乱のバブル経済期の中にあっても、県内企業の多くは投機的な投資よりも本業への投資を重視していました。全国の多くの金融機関が大打撃を受けた時期においても、八十二銀行では、「健全経営を堅持し、もって地域社会の発展に寄与する」という経営理念を貫くことにより、バブル後遺症の負の遺産をより少なくする事ができました。

  • 昭和37年の本店営業部
  • 諏訪湖畔の工場地帯

これからも郷土とともに

八十二銀行本店 八十二銀行は、創立以来、お客さまの立場に立って考え行動することを原点に、信頼され、お役に立つ銀行でありたいと願い続けております。
美しく住みよい信州の発展に寄与するため、これからも経済・金融の側面からのお手伝いはもとより、環境活動など様々な社会貢献活動にも引き続き取り組んでまいります。時代の変化に迅速に対応しながら、自己責任による堅実経営を通じて、八十二銀行は地域の皆さまのご信頼、ご期待にお応えしてまいります。

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