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    <title>ふるさとの文化財を守り伝える心</title>
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    <title>vol.30</title>
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    <published>2010-07-29T01:15:59Z</published>
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    <summary>「おしんめい（神明）さま」。大町市宮本の仁科神明宮は、地域の皆さんに親しみを込め...</summary>
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        <![CDATA[<p>「おしんめい（神明）さま」。大町市宮本の仁科神明宮は、地域の皆さんに親しみを込めてこう呼ばれています。境内は樹齢約千年の熊野杉に包まれ、氏神様として今も昔も身近な存在です。中世仁科氏による神事から松本藩主代々の祈願所として受け継がれ、藩主吉凶祈願の際は神楽が奉納されていました。明治以降は氏子の皆さんにより様々な神事と祭典が行われています。<br />
祭神天照大神に捧げる古風で幽雅な太々神楽は、長い歴史と伝統の中で受け継がれてきました。現在は9月第3月曜日に奉納されています。演目は「剣（つるぎ）之舞」「岩戸神楽」「五行(ごぎょう)之舞」「水継(みずつぎ)」「幣(ぬさ)之舞」「龍神神楽」「道祖神」。7つの演目終了後に全員での謡「太平楽」。そして参拝に訪れた方々には破魔矢が授けられます。<br />
神楽の舞方は神楽員と呼ばれ、神楽長を中心に20代、30代の青年男子がつとめます。笛・小太鼓・太鼓の囃子方、謡方、舞台の裏方は経験のある神楽員ＯＢがつとめます。<br />
戦後、若い担い手が減り継承が危ぶまれましたが、昭和44年、長野県無形民俗文化財に指定、続いて昭和45年、仁科神明宮神楽保存会を設立、氏子の皆さんが保存会員となり今日まで受け継がれてきました。<br />
保存会会長の矢口博文さん（59歳）は以前神楽長をつとめ、現在はＯＢとして舞方や謡方などの指導にあたっています。「神楽殿で行う稽古は若い神楽員の皆さんが中心となり、当たり前のように準備を進めてくれるので、ＯＢは指導や本番への調整に専念できます」と矢口さん。「受け継いだ神楽を正確に伝えたい」という想いから稽古にも熱が入ります。皆で声を掛け合いながらの活気ある稽古の後は、時間を忘れ語り合うこともあり、「おしんめいさま」が世代を超えた交流の場として賑わいます。<br />
「肩肘はらず自然で当たり前。この現状をいつまでも守り、多くの方に見て知ってほしい」と願う矢口さんの笑顔に継承への気負いはなく、純粋に神楽に親しむ様子がうかがえます。神楽員を卒業しても培われた「神楽の輪」が「地域の輪」となり活力を与えています。暮らしている土地の文化を尊び、楽しみ、次へと繋ぐ文化伝承の理想の姿は、こうした自然体な地域の温もりによって育まれているのかもしれません。<br />
</p>]]>
        
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    <title>vol.29</title>
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    <published>2010-04-15T03:05:05Z</published>
    <updated>2011-01-06T00:35:12Z</updated>

    <summary>毎年3月8日に、豊作・商売繁盛・子孫繁栄・交通安全を祈願して行われる長野市の桐原...</summary>
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        <![CDATA[<p>毎年3月8日に、豊作・商売繁盛・子孫繁栄・交通安全を祈願して行われる長野市の桐原牧神社春季例大祭のわら駒神事は、今からおよそ200年前の桐原村に伝わる古文書（享和2年）に記録が見られます。桐原は古くは名馬の産地であったと伝えられており、良馬生産の願いを込めた神事が、長い歴史のなかで様々な祭りの要素を加え現代に受け継がれています。<br />
桐原の区誌編纂に携わる中澤信雄さん（69歳）のお話によると、かつて祭りには各家から一体の藁馬が奉納されていましたが、現在は桐原牧（わら駒）保存会の皆さんの手によって作られています。奉納された藁馬は宮司のお祓いを受けた後、神馬として参拝者にくじ引きで授けられます。精巧で気品に満ちた藁馬は全国的にも有名で人気が高く、祭り当日は藁馬を引き当てようと遠方からもたくさんの人々が参拝にやってきます。<br />
奉納される藁馬づくりは、長野市選定保存技術として保存会が技術の継承に努めています。祭りの時期が近づくと、製作の技術保持者を中心とした保存会員13名で300体ほどの藁馬を作ります。保存会副会長の山岸勝さん（65歳）によると、細部まで手の込んだ藁馬は熟練した人でも一体作るのに半日かかり、技術の継承者が限られているため、製作の時期は忙しさに追われるといいます。<br />
桐原に暮らす人々に藁馬を知ってもらい、大勢の人に藁馬を作れるようになってほしいという思いのなかで、近年、保存会が中心となって藁馬づくりの講習会に力を入れています。年末に行われた講習会では、小さな子どもたちが、ふだん手にすることのない藁に触れて賑やかな歓声をあげていました。「子どもの頃から藁に親しみ、大人になってから藁馬を作ろうと思う人たちが出てきてくれればいいですね」。山岸さんの穏やかな眼差しに期待が込められています。また、中澤さんは、「藁馬づくりに関わることで地域との絆が深まりました」と語ります。保存会の活動は、継承者を育てるだけでなく、藁馬を通じて桐原に暮らす人々に、心の拠りどころをもたらす大きな力を生み出しています。<br />
</p>]]>
        
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    <title>vol.28</title>
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    <published>2010-01-13T06:12:25Z</published>
    <updated>2010-01-15T00:02:57Z</updated>

    <summary>私たちの暮らしの中でもっとも身近な農具である鎌は、地域ごとに多種多様なものがあり...</summary>
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        <![CDATA[<p>私たちの暮らしの中でもっとも身近な農具である鎌は、地域ごとに多種多様なものがあり、その土地に適する固有の地鎌が育てられてきました。信州鎌もその一つで、約450年前、川中島合戦に従軍した刀鍛冶がその技術を伝えたといわれています。主な産地である信濃町古間、柏原では、長い冬の副業として鎌鍛冶業が発達し、最盛期の明治末期には、年間約80万枚の鎌が生産され、「全国至らざる所なし」といわれるほど全国各地へと流通していました。<br />
信州鎌とは、この地域で独特な発展を遂げた「片刃の薄刃草刈り鎌」を指しています。この地の鎌産業が栄えた理由には、改良を加えて伝承された信州鎌の製造に加えて、型の異なる全国各地の地鎌を問屋の注文に応じて自由に作ることができる高度な技術にありました。「使い手に満足してもらえるように考えながら、一枚一枚鎌を作っています」。信濃町古間で長年鎌鍛冶業を営む小坂重夫さん（70歳）の朴訥とした語り口に、常に良質な鎌を求め、技術を高めてきた職人の姿がうかがえます。<br />
昭和の前半までこの地に鎚音を響かせてきた鎌鍛冶業も、農家数の減少に加え、農具の機械化や、安価な外国産鎌の流入などにより、衰退の一途をたどっています。信州鎌の活路を切り開くために結成された信州打刃物工業協同組合では、ほかの産地の鎌と差別化を図り知名度を高めようと、昭和57年に国の伝統的工芸品の指定を受け、平成19年には「信州鎌」の商標登録をしましたが、その成果はまだ見えてきません。<br />
「問屋や使い手に自分の鎌の評判を聞いて改良してきました。しかし問屋も、鎌の使い手も減ってしまった」そう語る小坂さんが作った鎌を手に取ると、量産品にはない手作りの味わいが感じられます。工芸品としての美しさも備えた信州鎌は、その実用性と磨きあげられた技術で私たちの暮らしに潤いをあたえてくれます。毎年、地域の伝統産業を学ぶために小学生が鍛冶場の見学に訪れているそうですが、こうした信州鎌を知る機会の広がりが、信州鎌で培われた技術を生かし伝統を守るための原動力になるのかもしれません。</p>]]>
        
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    <title>Vol.27</title>
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    <published>2010-01-13T01:33:48Z</published>
    <updated>2010-04-15T03:12:03Z</updated>

    <summary>「お神酒の口」と呼ばれるミキノクチは、お神酒徳利に挿して飾る竹細工の縁起物で、松...</summary>
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        <![CDATA[<p>「お神酒の口」と呼ばれるミキノクチは、お神酒徳利に挿して飾る竹細工の縁起物で、松本周辺では毎年暮れになるとこれを神棚に供える風習が広くみられました。江戸時代末期に下級武士たちの内職として作られはじめたと言われる松本のミキノクチですが、現在は１軒だけで製作が行われています。<br />
唯一の編み手である千野恵利子さんは、小さい頃から祖母の矢沢とよ子さんの側でミキノクチ製作に触れてきました。神様を意識する仕事であるため、「ミキノクチはお前が継げ」という祖母の言葉に負担を感じていましたが、懸命に製作に携わる祖母の姿を見て、３０歳でその技術を受け継ぐ決心をしました。製作期間中は塩尻の住まいから松本の実家まで通う毎日ですが、「親子でコタツを囲み仕事をする時間を持てる。それがミキノクチの製作を手伝って得ることができた一番の幸せです」と、この20年間を振り返ります。<br />
製作には竹を割く、編む、仕上げるという３つの工程がありますが、その中でも最も難しいのが竹を均等の細さに割く作業。父親の矢沢清美さんの熟練した技術がこれを長年支えてきましたが、昨年の春に清美さんが急死。竹を割く技術を継ぐ者がなく、もう諦めるしかないのかと悩んでいたなか、偶然にも県内の竹細工職人から「作業風景を見せてほしい」との依頼がきました。「亡くなったお父さんが連れてきてくれたのかもしれない」とご縁を感じた千野さん。技術を学びたいというこの職人の真摯な姿に接し、竹を割く技術を覚えてもらうことにしました。<br />
ミキノクチの製作技術を絶やすことなく残していくことは大変なことですが、「先のことを考えすぎず、その年ごとに自分ができることを精一杯頑張ればいい。そう思うと気を楽にして進められます」と千野さんはにこやかに話します。千野さんの手で作られるミキノクチには、先祖から受け継がれてきた技術だけではなく、作り手の真心と感謝の気持ち、そして家族の絆と家族を超えた新たな絆が編みこまれています。<br />
</p>]]>
        
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    <title>Vol.26</title>
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    <published>2009-08-12T05:24:34Z</published>
    <updated>2009-08-16T23:48:07Z</updated>

    <summary>木曽木櫛の代名詞ともなっている「お六櫛」は歯の目の細かい梳き櫛で、木祖村藪原でそ...</summary>
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        <![CDATA[<p>木曽木櫛の代名詞ともなっている「お六櫛」は歯の目の細かい梳き櫛で、木祖村藪原でその製作技術を守り続けています。藪原は中山道の難所であった鳥居峠の南側に位置する宿場町で、ここで生産される木櫛は江戸時代、江戸・東北方面をはじめ京都・大坂はもとより九州にまでもたらされ、最盛期には藪原の約７割の家が櫛の生産で生計を立てていました。<br />
お六櫛はミネバリの木を使用し、１０ｃｍにも満たない幅に１００本前後の歯を等間隔で挽いていきます。その技術は親から子へ代々受け継がれ、かつては日本髪の整髪用具として、また入浴の機会に恵まれない時代には頭のフケやほこりを取り、頭皮の健康を守るため、庶民の生活には必要不可欠なものでした。昭和３０年代に入ると女性の髪形の変化や洗髪剤の普及、化学製品の櫛の登場などにより需要は次第に減少、お六櫛の生産は衰退の一途をたどり、昭和４０年代には手挽き櫛の技法を受け継いだ職人はわずかになりました。<br />
このままではお六櫛作りの技術が廃れてしまうと案じた故川口助一氏（平成７年・お六櫛づくり人間県宝認定）によって手挽き技術の再興がはかられ、昭和５３年には保存会によって技術伝承講習会がはじまりました。「川口さんの行動がなかったら、今頃お六櫛は廃れていたかもしれない」と語る保存会長の北川聰さん(７５歳)は、川口さんに恩義を返すつもりで櫛作りと技術の伝承活動を続けているといいます。現在は数名の職人と保存会員によってお六櫛の技法は継承されていますが、現状は厳しく、技術保持者の高齢化が進んでいます。<br />
平成６年からは木祖中学校の授業の一環としてお六櫛作り体験がはじまり、子どもたちが伝統文化を肌で感じる場が設けられました。また、現在伊那谷から取り寄せているミネバリの木を村内で育てていこうと、近年苗木の植樹もはじまっています。子の代、孫の代、そして100年後にも手挽きの技術やお六櫛を残していこうと、地道な種蒔きが続けられています。<br />
</p>]]>
        
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    <title>Vol.25</title>
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    <published>2009-03-23T04:44:16Z</published>
    <updated>2011-02-02T01:10:30Z</updated>

    <summary>南北に長い長野県では、各地に多様な食文化が残っています。下伊那南部、天竜川沿いの...</summary>
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        <![CDATA[<p>南北に長い長野県では、各地に多様な食文化が残っています。下伊那南部、天竜川沿いの温暖な地域では柚子が栽培され、これを素材とした柚餅子の生産が泰阜村や天龍村で行われています。昔はこの地域のどの家庭でも囲炉裏の上に吊るし乾燥させ、その家々の独特の味を保存食としましたが、囲炉裏の生活がなくなると同時に消えかけていました。<br />
天龍村の中でも最南端に位置する坂部地区は、愛知・静岡の県境に接する静かな山里です。森林資源に恵まれていたこの山里も、国産木材の需要下落と共に過疎化が進みました。そんな頃、坂部の若妻たちがグループを作り、この地に古くからある柚餅子の勉強を始めます。その柚餅子を、坂部の伝統行事「冬祭り（重要無形民俗文化財）」の見物者に出したところ大変喜ばれ、後日東京から大量の注文が入りました。「家庭を守りながら働ける場はないだろうか」と考えていた矢先であり、これがきっかけにもなって昭和５０年に「天龍村柚餅子生産者組合」が発足、柚餅子の商品化への試行錯誤が始まりました。<br />
天竜川に紅葉が落ちる１１月頃になると、冬の風物詩でもある柚餅子作りは始まり、柚子の香り漂う工場では翌年３月頃まで作業が続きます。「食品添加物を含む食べ物があふれる昨今ですが、地元の食文化を知り、体に良いものを食べてほしい」と責任者の関京子さん（７３歳）。柚子は地元産のものだけを使い、掌の中でひとつひとつ丁寧に作られています。<br />
現在、加工場では関さん夫婦のほかに９２歳、８６歳のおばあちゃんが組合員として働き、繁忙期には友人や親戚も手伝いにかけつけます。天龍村の高齢化率は全国でもトップクラスですが、ここにはお年寄りが生涯現役で働く場所があり、柚餅子で繋がるコミュニティーがあります。「子どもたちが喜んで帰ってきてくれるような故郷作りをしておきたいんです」と笑顔で語る関さんからは、エネルギーが満ちあふれていました。香り深い小さな柚餅子には、坂部や家族への愛情、たくさんの思い出、そしてこれからの夢が詰まっています。<br />
</p>]]>
        
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    <title>Vol.24</title>
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    <published>2008-12-17T00:46:16Z</published>
    <updated>2009-02-02T04:25:04Z</updated>

    <summary> 樹齢６００年を超える杉の大木が境内に生い茂る東筑摩郡筑北村の刈谷沢神明宮は、昔...</summary>
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        <![CDATA[



<p>樹齢６００年を超える杉の大木が境内に生い茂る東筑摩郡筑北村の刈谷沢神明宮は、昔も今も変わらずこの地域の人びとの心のよりどころとして親しまれています。厳しい冬の寒さがやわらぎはじめる３月第２日曜日の春の例大祭では、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する神事が行われます。<br />御田植祭とも呼ばれるこの行事の主役はお札(ふだ)で作られている張子の牛です。この張子の牛を抱きかかえた太郎、万鍬(まんが)をもった次郎が「ボウボウ」と牛の鳴き声を出しながら代掻きの所作をまねて式場をまわり始めると、まわりの見物人からは待っていましたとばかりに、牛、さらには太郎や次郎めがけて雪玉が投げつけられます。沢山の雪玉を投げつけられ、「寒い。痛い」というのが彼らの役まわりですが、太郎や次郎の「毎年毎年やでござる」といった愉快な即興に場は盛り上がり、笑い声が境内に響きわたります。<br />降水量が少なく、何度も干ばつに見舞われているこの地域では、豊作の吉兆と言われる雪を投げることには、今年も十分な雨が降り、豊作でありますようにという祈りが込められています。そのため、雪はこのお祭りに欠かせないのです。雪がない年には、ムラの若者が軽トラック３台分もの雪を山から運んでこの祭りにそなえます。<br />田遊びやお作始めなどの予祝芸能は県内でも何ヶ所かで行われていますが、苦労が多い代掻き作業を笑いの中に融合させた刈谷沢の御田植祭はユニークであり、また非常に素朴な行事で、見る人の心をなごませてくれます。「素朴でオープンな雰囲気の中、その場にいるみんなが楽しめるからこそ、絶えることなく毎年行われてきたのでしょう」と語る氏子総代会長の宮入敏家さんの言葉から、この行事がいかに地域の人びとに愛され続けてきたのかが感じ取れます。<br />底抜けに明るい歓声が境内に響きわたるとき、刈谷沢には春が訪れます。<br /></p>]]>
        
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    <title>Vol.23</title>
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    <published>2008-12-04T02:06:28Z</published>
    <updated>2009-02-02T04:27:44Z</updated>

    <summary>須坂市の「野辺の来迎念仏」は、鎌倉時代末期の嘉暦年間（１３２６～１３２８年）に、...</summary>
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        <![CDATA[<p>須坂市の「野辺の来迎念仏」は、鎌倉時代末期の嘉暦年間（１３２６～１３２８年）に、遊行四世呑海上人（時宗清浄光寺開祖）によって伝授されたものと言われています。時宗本来の行事である「念仏和讃」と、後世つけ加えられたとされる「念仏獅子」の二つの要素で構成される「野辺の来迎念仏」は、全国的にも希少なものといわれています。<br />
念仏をひたすら唱えれば往生できるという時宗の教えは、鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて広く民衆に浸透し、野辺でも受け入れられ、今日に至ったのでしょう。区の住民の不幸の際には、念仏講によるお弔いの念仏和讃がおこなわれており、今でも地域との深い関わりを持っています。<br />
現在、この地域では巨峰を中心としたぶどう栽培が盛んですが、養蚕に大きく頼っていた昭和初期には、世界恐慌による繭価の急落により村は大きな打撃を受けました。「日本一の貧乏村とまで言われた当時は、念仏講の集まりくらいしか楽しみがなかったのかもしれない」と前講長の中沢生一さん（８１歳）は笑いながら語ってくれました。このような時代を経ながらも、念仏講によってこの行事は受け継がれてきました。<br />
かつては２５編ほど伝わっていたとされる和讃も今では３編を唱えるだけで、念仏の時間も短くなりました。「絶やしてはいけないという責任感がなければ続かない」と、講長の冨沢忠彦さん（８０歳）は来迎念仏を後世に残し続けていく苦労を語ります。一方で、「野辺で育った子どもたちが大きくなってここを離れても、来迎念仏が伝わるこの地を誇りに思ってほしい」との思いも口にします。<br />
鉦と太鼓の音の中で和讃の声が流れ、やがて二頭の獅子が登場する野辺の来迎念仏。その中には祖先への供養と極楽往生を願う静かな祈りの姿があります。中世から時は流れ、そこに住む人々の姿も変わりましたが、念仏には、今を生きる野辺の人々と祖先の祈りの声とが重なるような気がしました。 </p>]]>
        
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    <title>Vol.22</title>
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    <published>2000-09-22T02:12:31Z</published>
    <updated>2009-01-16T05:26:31Z</updated>

    <summary>400年近く前から受け継がれてきたとされる「下栗のかけ踊り」は第二次大戦中、諸々...</summary>
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        <![CDATA[<font style="FONT-SIZE: 1em">400年</font>近く前から受け継がれてきたとされる「下栗のかけ踊り」は第二次大戦中、諸々の理由から中止を余儀なくされましたが、踊りを残していこうという村人たちが中心となって昭和47年頃に復活されました。神仏をまわる盆行事とも、念仏踊りが雨乞い踊りに変化したものとも言われています。<br />飯田市上村の下栗地域は「日本のチロル」と呼ばれ、南アルプスを間近にした標高800～1100ｍの急傾斜地にわずかな耕地や民家が点在しています。傾斜30度余の山腹にある下栗では、その環境から夏の干ばつがひどく、雨乞いをして豊穣祈願する願かけ踊りがおこなわれていました。人々は下栗の集落から数時間かけて「お池」（御池山）まで水をもらいに行き、それを神社におさめて降雨を祈願していたと言われています。その道中では、各所で歌や太鼓の音を天に響かせ、踊りを奉納しました。それほど、この地では雨水は切実なものでした。<br />水道が整備された今日、干ばつの心配はなくなり、雨乞いの意識は薄れましたが、毎年8月15日に人々は拾五社大明神に集まり、かけ踊りはおこなわれています。しかし、かつては400人いた人口も120人に減少、中学生以下は8人と、過疎化は深刻です。今後、集落そのものがなくなってしまうかもしれないという危機感すら住民の多くが抱いています。<br />「下栗に暮らす者にとってかけ踊りは大事なもので、ここにいる限りは続けていく責任があります。やめてしまったらご先祖様に対して申し訳ない」。保存会長の熊谷清登さん（69歳）の表情はたいへん穏やかですが、語る言葉は力強く、この踊りと下栗の集落を守っていきたいという思いにあふれていました。雨乞いのために受け継がれてきたかけ踊りですが、下栗の集落そのものの存続への願いが込められているのかもしれません。<br /><br />"東西　東西　おしずまれ　鎮めてお歌をお聞きやれ・・・・・"<br /><br />今年も、来年も・・・夏にはこの古調のメロディーが山間(やまあい)に流れることを願って下栗の集落を後にしました。<br />]]>
        
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    <title>Vol.21</title>
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    <published>2000-09-21T02:12:31Z</published>
    <updated>2008-12-20T02:19:39Z</updated>

    <summary>伊那谷獅子舞の源流とされる「大島山瑠璃寺の獅子舞」は、雄大な南アルプスを東に望む...</summary>
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        <![CDATA[伊那谷獅子舞の源流とされる「大島山瑠璃寺の獅子舞」は、雄大な南アルプスを東に望む下伊那郡高森町大島山の瑠璃寺で4月第2日曜日に奉納されます。その起源は瑠璃寺が創建された天永3年（1112）までさかのぼるともいわれ、江戸の後期には現在のような獅子舞の型になったとされています。<br />獅子舞は幌(ほろ)を掛けた大きな屋台を胴体とし、この中に獅子頭の使い手数人と10数名の囃子(はやし)が入って練り歩くといった独特なもの。獅子使いの宇天王は優雅な所作で獅子をあやつり、獅子のまわりでは猿と鬼が宇天王の舞を助けます。独特な所作やお囃子は年数を重ねてようやく覚えるようになります。<br />かつて、大島山の地区では学校を卒業した若者が獅子舞に関わることは当たり前とされていましたが、若い担い手の減少や若者と地域との関わりが薄くなるなかで、母体となる組織が消滅。そのため、昭和49 年に大島山獅子舞保存会が立ち上げられました。<br />現在、獅子舞との関わりは地区の壮年団に入る35歳位から始まります。壮年団があることで獅子舞が次の世代に受け継がれ、他の地からこの地に来た人達にも獅子舞を通じた和が広がっていきます。後継者集めには苦労がありますが、保存会の方の努力もあり、一時期と比べると若い担い手は増えているそうです。<br />獅子舞を次世代に伝えるために、10年ほど前からは宵祭りの前段に子ども獅子舞をおこなうようになりました。「まずは子どもたちに楽しいと感じてもらいたい。そこから興味を持ってもらえれば」と語る福田渉さんは、現在子どもたちへの勧誘に熱心に取り組んでいます。<br />地域の連帯が薄れてきている今日、保存会長の本島喜代人さんは「ここでは獅子舞があることで地域の人びとが心ひとつになることができます」と語ります。大島山瑠璃寺の獅子舞はこうして年長者から若い人たち、そして子どもたちへと世代を越えて地域の人びとの心を繋いでいきます。<br />]]>
        
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    <title>Vol.20</title>
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    <published>2000-09-20T02:12:31Z</published>
    <updated>2008-12-20T02:20:00Z</updated>

    <summary>長野市大岡地区（旧更級郡大岡村）は「日本の棚田百選」に選ばれた農村風景がいたると...</summary>
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        <![CDATA[長野市大岡地区（旧更級郡大岡村）は「日本の棚田百選」に選ばれた農村風景がいたるところに見られます。山間部にある芦ノ尻集落は、手入れされた山林や田畑などの美しい景観が広がり、ここで暮らす人々の豊かな日常が感じられます。ユニークな雄姿で知られる芦ノ尻の神面装飾道祖神は集落のはずれで北アルプスの山並みを一望しています。<br />芦ノ尻の道祖神祭りは正月松の内が終わる1月7日に行われます。祭りは、1年間村の守護を果たした神面への感謝の拝礼後、取り外し焼くことから始まります。その後、各戸から持ち寄った注連縄を選び、1.5メートルほどの道祖神の石碑に新しい神面を飾りつけ、翌年までの1年間、悪霊や疫病から集落を守る守護神とします。<br />この道祖神祭りは古くは15歳以上の未婚の男子によって行われる若衆仲間入りの祭事でした。しかし過疎化が進み、38世帯ある集落のほとんどが老夫婦の二人暮らしで、60代、70代を中心とした男性によって支えられているのが現状です。さらに高齢化が進み、集落で米を作る人が減ると注連縄を作る藁の確保さえ難しくなる時期が訪れるかもしれないと祭りの今後を心配する声もあります。<br />一方で、芦ノ尻神面装飾道祖神保存会会長の熊井幹夫さんによると、「この集落はまとまりが強く、声をかければ応えてくれる」関係が築かれており、保存会は集落の全戸の人々で構成されています。「先祖から受け継いだ役割を若い人たちが抵抗なく継承できるようにすることが我々の役目」という思いのなかで、保存会の人々が毎年交代で道祖神の装飾やどんど焼きを執り行い、技術を受け継いでいます。<br />私たちが暮らす地域は市町村合併により広がりを持ちましたが、近隣とのつながりが希薄になりつつあります。芦ノ尻は小さな集落ですが、そこに暮らす人々は「行事を通して集落の人々の気持ちが一つにまとまります。文化財を守ることは地域を守ることにつながる」と語り、地域に伝わる文化と美しい日本の原風景を次の世代へつないでいます。<br />]]>
        
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    <title>Vol.19</title>
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    <published>2000-09-19T02:12:31Z</published>
    <updated>2008-12-20T02:20:22Z</updated>

    <summary>和紙の里として知られる南木曽町田立(ただち)地区では、毎年秋、五穀豊穣への感謝と...</summary>
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        <![CDATA[和紙の里として知られる南木曽町田立(ただち)地区では、毎年秋、五穀豊穣への感謝と、安産、家内安全などを祈願し「田立の花馬祭り」が行われます。祭りの起源は約300年前にさかのぼることができます。<br />祭り当日は田立駅前広場より花馬行列が五宮(いつみや)神社へ向かってゆっくりと練り歩き、先頭馬には神が宿るヒモロギを、中馬には豊作を表すキクを、後馬には南宮社社紋の日月の幟を立て、そのまわりに、細く割った竹に五色の色紙を飾りつけ、稲穂を形どった花を365 本差し回します。花馬行列が神社へ到着し、境内を三回まわり終えると、見物人はいっせいに馬に飛びついて花を取り合います。取った花は家に持ち帰り、家の入り口にさすと家を疫病神から守るといわれています。<br />神馬は古来より伝わる木曽馬で、県の天然記念物に指定されており、神馬2 頭は花馬祭り保存会で大切に飼育されています。「勤め人だった頃には馬を飼う自信などありませんでした。馬は生きものですから気を遣います」。飼育係である桜井忠孝さんの言葉どおり、馬の世話には休みはありません。<br />「祭り１日のために馬を飼っている」と笑う保存会の皆さんですが、かつて人々の暮らしは馬とともにありました。農耕用に飼われていた木曽馬は、昭和30年代以降減産の一途をたどり、一時は馬種の維持さえ困難な状況になりました。そのため、一時期は神馬の用意に大変な苦労があったそうです。<br />花馬祭りは長野オリンピック閉会式に参加したことで有名となり、最近では各地のイベントに招待されることも多くなりました。一方で「花馬祭りは人に見せるだけではなく、地域の安寧や豊作への感謝、家内安全を祈って奉納するものです。地域のみんなが集まり毎年続けることこそ先祖から伝わる伝統を守ることになる」と五宮神社宮司の高橋邦衛さんは言います。<br />祭り当日は子どもみこし、花馬行列、田立歌舞伎などが朝から夜まで続きます。子どもからお年寄りまで人々が集い参加する花馬祭りは、かつて人々と共生した木曽馬の歴史とともに受け継がれています。<br /><br />]]>
        
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    <title>Vol.18</title>
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    <published>2000-09-18T02:12:31Z</published>
    <updated>2008-12-20T02:20:44Z</updated>

    <summary>かつての「塩の道」千国街道に並行して流れる姫川の支流、中谷川に沿って北安曇郡小谷...</summary>
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        <![CDATA[かつての「塩の道」千国街道に並行して流れる姫川の支流、中谷川に沿って北安曇郡小谷村中谷郷と呼ばれる集落が広がります。この集落にある大宮諏訪神社では、8月最終日曜日に例大祭が行われ、狂拍子、奴踊り、獅子舞の芸能が奉納されます。狂拍子は古来より小谷村に伝わる芸能で、かつて村内の神社八ヵ所で奉納されていましたが、老齢化や子どもが少なくなったことで多くが途絶えてしまいました。舞は祖先たちへの豊年や増産への願いを表現したもので、10歳くらいの男子2人が陰陽合体を意味するといわれる舞を踊ります。舞手の前方の子は二本、後方の子は飾りのついた長めの一本の棒を持ち、笛や太鼓のお囃子に合わせて踊るその姿は軽快です。<br />大宮諏訪神社の狂拍子は昭和54年から地元の中土小学校が授業の一環として保存活動を行っていましたが、平成13年からは、学校を介した地域の人々によって立ち上げられた保存会で継承活動を行っています。<br />吉田公人さん（49歳）によると、保存会の立ち上げ当時、中土小学校の全校児童はおよそ30名。豊かな自然に恵まれた土地柄を気に入り都会から移り住んだ人々や山村留学生など、子どもの半数が村外からの転入者でした。子どもが少なかったため、学校行事やお祭りに大人も一緒に関わることで地域の仲間として人々の絆も深まったそうです。<br />しかし、近年は小学校の統廃合や山村留学の休止など、子どもを取り巻く環境が大きく変化し、継承の先行きに不安が募ります。「過疎が進み、お祭り自体が負担になっている声も聞かれます。しかし、ここに暮らす人がいるかぎりは、先祖から受け継いだ舞を伝えていきたい」吉田さんの胸中は複雑です。<br />それでも「狂拍子の稽古はいつからやるの」と春先から稽古を気にかける子どもたちや、稽古に顔を出して舞い方を指導する地元の人々、「伝統文化を守りたい」と率先して参加する村外から移り住んだ人々がいます。狂拍子はこうした中谷郷に暮らす人々の支えによって受け継がれています。
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    <title>Vol.17</title>
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    <published>2000-09-17T02:12:31Z</published>
    <updated>2009-01-21T03:46:16Z</updated>

    <summary>まだ寒さの残る4月第1日曜日、小海町の親沢諏訪神社の春の例祭では、五穀豊穣を祈願...</summary>
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        <![CDATA[まだ寒さの残る4月第1日曜日、小海町の親沢諏訪神社の春の例祭では、五穀豊穣を祈願して「人形三番叟」が奉納されます。人間が面をつけて踊る式三番は各地で見られますが、人形が能がかりに舞う芸能は珍しく、県無形民俗文化財に指定されています。初演は天明3年（1783）と伝えられており、独特の伝承制度によって一度も休むことなく奉納されてきました。<br />人形三番叟に出演する「役者」は、翁(おきな)・千代(ちよ)・丈(じょう)（「丈」は二人遣い）の3体の人形を操る4名と囃子(はやし)方8名の計12名。いったん引き受けると同じ役を7年つとめます。稽古は例祭前の約1週間、地区の公民館に集まり行います。しきたりは厳格で、指導役である親方と役者24名が全員そろって稽古を始めます。稽古はすべて親方からの口伝えです。まず、親方が舞い、役者（弟子）はそれを見様見真似で稽古する。それぞれの親方は弟子にマンツーマンの指導をする。こうした厳しい稽古を通して、親方と弟子は生涯にわたり師弟関係を超えた固い絆で結ばれることになるそうです。<br />このように独特のしきたりのなかで受け継がれてきた人形三番叟ですが、最近では深刻な後継者問題に直面しています。かつて役者は限られた家系の長男に受け継がれていましたが、時代の流れのなかで役を受けられる人が減り、今では親沢に縁(ゆかり)のある人すべてを対象に役者を探すようになりました。また、例祭の開催日も4年前から休日に合わせています。「口承の部分が多いので、時代を経るごとに変わっていくものがあることは仕方がないことです。大切なことは、先祖から受け継がれてきた人形三番叟を、今後も絶やすことなく続けていくことです」。「おじっつあ」の井上晴正さん（46歳）と「親方」の井出重信さん（36歳）は異口同音に語ります。<br />「稽古は厳しいですが、教えを請う立場としては当然のこと。人形三番叟に出演できることを誇りに思います」と語る役者5年目の井上正彦さん（29歳）。この春もまた、人形三番叟の優雅な舞を見せてくれることでしょう。<br />]]>
        
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    <title>Vol.16</title>
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    <published>2000-09-16T02:12:31Z</published>
    <updated>2009-01-21T03:39:41Z</updated>

    <summary>信州の農村には、道祖神のある風景がよく見られます。道ばたの石造物からは、ひとびと...</summary>
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        <name>管理者</name>
        
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        <![CDATA[信州の農村には、道祖神のある風景がよく見られます。道ばたの石造物からは、ひとびとの素朴な願いが伝わってくるようで、見る人をなごませます。道祖神は県内に広く見られ、数多くの祭礼行事が行われています。上田市真田町長戸沢地区では、わらうまを引いて、米の粉でつくった「ねじ」を持って道祖神にお詣りにいく行事が残っています。<br />ねじは、2月8日に、子どもが引くわらうまに背負わせるほか、重箱に詰めて持参します。重箱のねじは、一つを道祖神にお供えし、残りは居合わせた人たちで交換します。前日には親類縁者が集まり、賑やかにねじ作りが始まります。「ねじは戦時中も途絶えることなく作られてきました。一方で、わらうま作りには技術が必要です」と、この行事に詳しい柳沢孝雄さんが語ってくれました。<br />最近では、勤め人が増え、農業に従事する人が減り、技術を持つ人が少なくなりました。近年はわらうま作りの保存会による技術継承の活動も難しくなり、わらうまの作り方を習うために、名人の柳沢斉(ひとし)さんのもとに集まるのも数名です。それでも「毎年必ずわらうまを作ろうと、声がかかります。みんな子どもや孫のために頑張っています」。柳沢韶子(あきこ)さんの言葉には、数少ない継承者への期待が込められています。<br />少子化や都市部への人口集中により、子どもの姿は少なくなりました。そのため2月8日には、戸沢で暮らす子どもだけでなく、行事のために帰省した若い世帯の子どもたちが参加する姿も見られます。しかし郷里を離れた人びとも、戸沢に暮らす人びとも、子どもの健やかな成長を願う気持ちは変わることなく、こうした願いの強さがこの行事を守り伝えています。<br />今年わらうまを引く子どもたちも、やがて大人になり、今度は自らの子どもたちの成長を願って子どもとともにねじを作ることでしょう。<br />ねじやわらうまに込められた願いは未来へ巡ります。<br /><br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="DISPLAY: inline"><img class="mt-image-none" height="125" alt="16_02.jpg" src="http://www.ncp.or.jp//bunkazai/furusato/16_02.jpg" width="125" /></span><br />「ねじ」<br />&nbsp;ねじは、米の粉に湯を加えてこね、茹でた生地に彩色し、餡を詰めてかたちを整える。伝統的なかたちに、木の葉や動物がある]]>
        
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